suetumuhanaのブログ

日常のエッセイ

もうすぐ大嫌いな夏だけど

それでも、梅雨前のこの季節はなんとも空が高くて空気が乾燥していて、日差しがカラッとしていてきもちがいい。心が暗くなる要素といえばもうすぐ夏が来ることくらい。この地は真冬でもそれほど寒くはないし(例えば北ヨーロッパなどに比べて)梅雨から真夏までの不愉快さがこれほどのところが世界中のどこにあるんだろうかと思うほどだ。かつてアリゾナの宣教師さんの家に御厄介になっていた時そこの気候は昼間は直射日光が痛いほどでガンガンに日焼けしそうだったけど夜はセーターを着て出かかていたもんなぁ。まあ、一年中いたわけではないんでそこんところではどうなのかわからないけれどあんな気候のところもいいなぁと思う。

毎週の祈祷会にて

もう20年以上毎週の水曜日の夕方の祈祷会に出ています。またその出席者が私一人なんでその間の一時間半は牧師と二人きりの結構な濃い時間になります。毎週聖書個所か決まっているんでそこらへんを数節読んでふたりであれやこれやと感じるところや聖書解釈、信仰理解などを話し合うことになります。私が信仰を持ち始めたころの私が通っていた牧師は教義解釈を自由にすることを非常に嫌ったものです。でも所詮人間が神が理解出来たらそれは神ではなくなります。その意味でも聖書の文書解釈は心理が一つあるんでしょうけれど教義の解釈は自由でいいんだと思います。

礼拝は召天者記念礼拝でした

所詮というのは失礼だと思いますが、牧師の「話す」説教というのは聖書を読みこんだという点では尊敬に値するけれどそこに神のみ言葉を聴くことができるか、あるいは牧師の聖書理解のそれも悪ければ「独善的な」聖書理解のお披露目でしかない。私自身30数年にわたって少なくない牧師の説教に接してきたけれどその都度それこそ信仰に入った当初は落胆しきりだった。しかし多くの時間とそれに伴う人生経験と諸先輩方の書籍によって牧師の説教の度に安堵や落胆をすることはなくなった。そこに神のみ言葉を見出すより牧師の聖書理解のお披露目を見出すことがよくあるからだ。信仰とはあるいは神とはと人間が語れるほど小さくはなく自分の聖書理解と神理解を信者に押し付けるのではなく自分で考えることができる信仰が大事なことなんだ。