suetumuhanaのブログ

日常のエッセイ

礼拝は召天者記念礼拝でした

所詮というのは失礼だと思いますが、牧師の「話す」説教というのは聖書を読みこんだという点では尊敬に値するけれどそこに神のみ言葉を聴くことができるか、あるいは牧師の聖書理解のそれも悪ければ「独善的な」聖書理解のお披露目でしかない。私自身30数年にわたって少なくない牧師の説教に接してきたけれどその都度それこそ信仰に入った当初は落胆しきりだった。しかし多くの時間とそれに伴う人生経験と諸先輩方の書籍によって牧師の説教の度に安堵や落胆をすることはなくなった。そこに神のみ言葉を見出すより牧師の聖書理解のお披露目を見出すことがよくあるからだ。信仰とはあるいは神とはと人間が語れるほど小さくはなく自分の聖書理解と神理解を信者に押し付けるのではなく自分で考えることができる信仰が大事なことなんだ。