suetumuhanaのブログ

日常のエッセイ

神を許す

最近読んだキリスト教のチラシにかかれていた言葉です。これは沈黙する神に対する答えの一つの形だと思います。私たちはこの世で理解しがたい理不尽な事柄に出会います。祈りの答えが神の沈黙にしか思えないときにそれでも神を信じるというということは神を許すという行為に似ているように思います。そもそもキリストの十字架そのものが理不尽の極みでありそして神の沈黙ではないでしょうか。

沈黙する神

神の沈黙はもうずっと昔からの状態です。これは多くの文章にもなったし何らかの形で芸術作品にもなっていると思います。教会ではお証と称して神があなたになさった様々なことを話す機会が多々あります。私にも多少なりともそのような機会がありました。しかし年齢を経るにつれ、また世の中の様々な状況を見るにつけかつてユダヤの民族宗教でありかのように直接あるいは預言者を通して饒舌であった神は我々の祈りにいつしか沈黙で応えるようになったように思います。そして沈黙する神に祈ることに私は神の最高の応答が常にあるように思います。この語らない神に祈る行為こそ私の唯一の信仰告白であります。

待降節にはいったので

待降節にはいりましたので教会でもクリスマスの飾りつけをしました。それから我が家なかと扉のノブも飾り付けました。街なかの電球キラキラの飾りではないんだけれどそれでもクリスマスが近いんだなぁと思います。本当は神に祈るほどのことができないことが人生でもままあるように思いますがそれでも迷いながらも疑いながらも疑問に思いながらも信仰者であることができるようにとこれもまた祈りのひとつです。