suetumuhanaのブログ

日常のエッセイ

本日も日曜日が過ぎました

本日の礼拝。そもそも人間が神のことを語るのにその人間がどれほどの事柄を分かったつもりで話すのだろうか。人の頭脳で作られた神が神であるはずはないしその正体のずべてを理解できるはずもないにもかかわらずその正体がわかっているような体で自分の権威ではない神の権威と称して自分の権威を振りかざすことが説教であってよいはずがない。自分自身生きている間に聞く説教よりもあらゆる媒体例えば書籍等でキリスト教の事柄を読んでみてもその神学あるいは聖書学あるいはキリスト教揺籃期の物語などどの一つをとっても生きている間にその最後まで到底行きつくはずのないものに何とか食らいついて一生を終えたらまだ幸せかなぁと思うようになった。

一生懸命やりましたけど

本日、一冊の説教集を読み終えました。もう今から50年近く前の牧師の説教集です。一応私でも名前は知っているんで何冊か本も書いている牧師です。私の信仰の初期にこのような説教を聞きたかったなぁと思いました。しかし信仰をもってもう40年ちかくになる今日に読むからこそ分かる説教なのかも知れないし、その当時この先生に出会っていても今のようにその話を理解できたかは不明ですが、いずれにしても私は信仰の初期段階で非常に律法的な話でかがんじがらめにされたようにおもいます。人生にはその最後にわたしは一生懸命に行きましたけどこんな結果に終わりましたという人生は十分に救われる人生だと確信しました。

先斗町で

今どきの学生さんは仲間内で飲むというときどんなとこへ行かれるんでしょうか。昔と違って居酒屋と一言で言っても様々な種類のお店があって値段、形態、業種と選び放題というところでしょうか。さて、今から30数年前では居酒屋というのはサラリーマンおじさんの集い場所で学生さんはよく気取って「パブ」と称するところへ出入りしました。ビルの地階や外付けのらせん階段を上ったところにそんなお店はありました。先日先斗町を歩いておりました。確かこの辺りと思ってちょっと注意して歩いていますと見覚えのある雑居ビルにありました。懐かしいあのお店の看板が。今でも当時と同じ形態でお店をやっておられるんでしょうか「パブ&レストラン」とそこには書かれていました。あのころの仲間の一人はもうこの世からもいなくなてしまったけれどかけがえのないあの「無駄にした時間」が本当はとっても貴重だったんだと思えるのです。