suetumuhanaのブログ

日常のエッセイ

金木犀の香り

街じゅうに金木犀の香りがあふれています。街の香りというのはそこに住んでいる人はなかなか気づかないのかもしれません。けれどこの時期に京都に来られた方は金木犀の香りが思い出になることだと思います。私は海外での思い出はそんなにありませんがそれでもLos Angelesの空港に着いた時には何か機械的なにおいがしました。そして人はかおりの記憶はそれ以来強烈なんじゃないかと思うんです。それ以来その機械的なにおいに似たにおいをどこかで嗅いだ時に強烈にその時のことを思い出すんです。あの時は一人旅だったんでその時の大変な緊張感など。そういえば中学生時代にはちょっと気になる人の何か柑橘系の香りがとんでもなく記憶に残っていてその香りに似た香りがどこからともなく漂ってくるとふとあの甘酸っぱい時代を思い出します。

柘榴(ざくろ)の実がなる頃

小学校の校庭の片隅の水飲み場のあたりに大きな柘榴の木がありました。毎年今頃になると真っ赤な実をつけさらにその実の端の方がパンと割れて小さな果実がぎっしりと見えるようになります。ある日その実が木から落ちていたのかあるいは手の届くところにその実がなっていたのかはもうすっかり忘れましたがその実をみんなで分けて食べたんです。ご存知の方もあると思いますが小さなつぶつぶの中に種を包むように赤い果汁いっぱいの実があります。さてその頃の小学校の担任の先生は軍隊経験のある方がまだまだいらして私たちの担任もそのような方でした。そのような経験をされた人には私たちとは違う価値観というものがあるようです。さてそこで先ほどの柘榴の実を食べていた時にその先生が私たちを見つけて大声で「卑しいことをするな!」と叱ったんです。今思えばそのことはまだ納得できるんですがその先生は私たちが3階あるいは2階の教室の窓から「せんせ~い。」などと呼ぼうものなら「上から人を見下げて呼ぶとはなにごとか!下まで降りて来い!」と私たちを叱ったんです。今思うと何か独特の先生の意識するところの『日本男児』の矜持があったんだと思います。

偶像崇拝への批判について

おおよそ一神教の信者さんは偶像崇拝について自分たちはそんなことをしませんというように一段上からの目線でおっしゃることがあります。さて彼らの批判するところの偶像とはおそらく木材で作られた仏像や掛け軸に描かれたありがたいご本尊という事になるんだろうと思いますが私たちキリスト者である教会員の誰彼となく「あなたにとっての神様の証」を聞くにつけその証そのものがその信者の作り上げた偶像に思えます。人間は神によって創造されたという聖書の記述とは裏腹に信者のする証そのものがまさに人間が造り上げた神という自分に都合の良い偶像であるという事になりはしないかと思えるのであります。